予感|戦争の体験談を語るわ

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予感

6月末頃だったと思う。隣のフルヴァツカで戦争が始まったんだ。
隣国だけれど、自分達には特に関係がないものだと思っていた。

しかし、実際にはそう簡単な問題ではなかったんだ。
街だけでなく、学校のクラスにおいても、
スルツキ・フルヴァツキ、そしてボシュニャチの間で
気まずい状況になり、ついにはクラスの席が民族ごとに
別れる様な状態になってきた。

言うまでも無く、今までのように放課後一緒に遊ぶ事は出来なくなったんだ。
ただ、それでもまだ大きな紛争にはなっていなかった。
まだフルヴァツカだけの話で済んでいたんだ。

おいついた。>>1がんがりんさい

>>144
ありがとう。

だから、民族間の陰での対立が始まる兆候が見えてからも、
俺達は大人に隠れてこっそりと秘密基地に集まっては、
9人で遊んでいた。自分達には関係ない話だったんだ。
俺達にとって大切なのは、民族や宗教じゃなくて、
目の前にいる友達だった。だから、何があっても俺達は
仲間だ。一緒に助け合っていこう。ずっと一緒だ。
そういった約束を交わしたんだ。

ごめん。言い忘れてたけど、
俺は日本人で、
ソニア、サニャ、メルヴィナ、カミーユ、メフメット、カマルはボシュニャチでムスリム
ミルコはフルヴァツキでローマ・カトリック
ドラガンはスルツキでスルプスカ・プラボスラニナ

あ。スルプスカ・プラボスラニナっていうのは、セルビア正教ね。

俺達は友達であり、お互いに信頼し合う仲間だったけれど、
同じ言葉を話しているとはいえ、違う民族、そして違う宗教を信ずる集まりだったんだ。

なんでこんなゴミ溜めのVIPなんかに投下したんだよ

>>148
ここがゴミ溜めなら、外は偽善者ばかりの地獄だからだよ。

夏休みに入っても、去年のように一緒に表立って遊ぶという事は出来なくなっていた。
少しずつではあるけれど、着実のこの国でも民族間の対立、宗教の対立、そして過去の
負の因縁の対立が次第に高まってきていた。大人たちは違う民族間で極力話さないように
なっていたし、話してはいけない雰囲気になっていたんだ。

ドラガンだけがセルビア人なのか。

>>150
うん。実際、俺達の地域は5割くらいがボシュニャチで、4割がスルツキ、1割がフルヴァツキ
みたいな感じだったと思うんだ。だから、俺の地域では少なくともスルツキは少数派では
なかったよ。

父さんは、もしかしたら戦争になるかもしれない。お父さんは仕事をやめる事が出来ないが、
祐希は日本へ帰りなさい。って何度も言われた。でも、俺は友達を残して自分だけ日本に
帰るなんて出来なかった。それに戦争というものを理解していなかったんだ。
戦争にならないようにすればいいでしょ。そんな風に思っていた。

基本的に同じ民族、殆ど同じ宗教の人々が暮らす日本で育ったから、
理解できなかったんだ。民族間の対立というものを。子どもだったしね。

親父の仕事聞いてもいい?

>>153
研究者だった。といっても、自然科学系だったんだけど、資料がある部屋とかには
入っちゃ駄目って言われたりしてたから、ボスニアの研究機関で仕事してるってことしか
知らなかったよ。

そして9月になった。今まではフルヴァツキの軍と
フルヴァツカ在住のスルツキの人々との衝突だった紛争が、
9月末頃にはフルヴァツカ軍とスルツキを主体としたユーゴ連邦軍の戦争へと
発展したんだ。

この国では、ボシュニャチが人口の過半数を占めていて、
俺の住んでいたカリノヴィクも例外じゃなかった。
日が経つに連れて、街の中ではフルヴァツキとスルツキの人々の
関係が悪化して、時々通りで大人同士が喧嘩をするようになってきていたんだ。

おもしろいと言ったら悪いのかもしれんが大変興味深い

そして10月に入ると、ボシュニャチが大半を占めるこの国では、
連邦から脱退しようという声が広がって、
ついに政府が主権宣言みたいのをしたんだ。つまり、
連邦内の国家じゃなくて、一つの独立した主権を有する国家となるという宣言なんだ。

父さんから説明されても、当時は理解できなかったけれどね。
その宣言によって、街の中はさらに緊迫した状況になった。
学校の中でも、子どもであるにも関わらず、民族どうして一緒に行動して、
そして喧嘩が起きたりしていたんだ。つい最近までは一緒に遊んでいたのに。

横文字が多くて頭が痛くなってきたがまだ大丈夫だ進めてくれ!

>>166
ちょっと違和感あるけど、日本語の読み方で書くように努力する。

街や学校、恐らく国内全域で、フルヴァツキ(クロアチア人)・ボシュニャチ(ボスニア人)と
スルツキ(セルビア人)の間で緊迫した状況になっていたんだと思う。
親には外で遊ぶのは辞めなさいと言われるようになっていたし、一緒に
遊んでいた8人も親から同様の事を言われていた。

大人は、例え子どもであったとしても、他民族の子には冷たくするようになってきていた。
今の東京の比じゃないくらい、寂しく悲しい街へと変わっていたんだ。

年が明けて1992年になっても、状況は好転せず、ますます混迷を極めてきていた。
民族ごとに武装の準備を始めたり、時には街中で銃を持ってあるく市民も出始めていたんだ。
初めて目にする銃は、とても怖かった。でも非現実的な光景に見えて仕方が無かったんだ。
まさか、そんなのを使うわけ無いでしょってね。

フルヴァツキとスルツキが対立してるのは分かったけど、この時のボシュナチの立場ってどういう状況なんだ?
よく分からなくてごめん

>>171
俺もこの時は何でボシュニャチ(ボスニア人も?)って思ったんだよ。
だけどさ、最初のフルヴァツカ紛争(クロアチア紛争)の発端は、どっかの競技場?で
ボシュニャチ(ボスニア人)がスルツキ(セルビア人)を殺してしまった事から始まったらしい。
勿論、それ以前から問題はくすぶっていたんだけど、それが爆発するきっかけを作ってしまったんだ。

そして、第二次世界大戦中、ボシュニャチ(ボスニア人)も、スルツキ(セルビア人)を殺してたんだよ…。

そして、今から書くけど、連邦からの独立をセルビアは反対していた。そしてボスニア・ヘルツェゴビナの
セルビア人も。しかし、ボスニア人とクロアチア人は独立に賛成していたんだ。

>>1は何故そこまで日本に失望したのか後で教えてくれ

>>172
日本には失望していないよ。
自分に失望しただけ。

そして2月に入って、ついに独立の国民投票が始まった。ドラガン達のような
スルツキ(セルビア人)の人々は、この投票に怒りをあらわして、投票を棄権したんだ。
それと同時に、俺達が住んでいた地域は
スルツキ(セルビア人)や連邦軍によって、ボスニア・ヘルツェゴビナからの離脱が表明されたんだ。

つまり、連邦からの独立に反対する人々と、独立を推し進める人々によって、俺達が居た国は
三つの勢力にわかれた。言うまでも無く、ボシュニャチ・フルヴァツキ・スルツキの民族ごとの
三勢力にね。

クロアチア人も独立に賛成していのか

>>178
賛成していた。だからこそ、クロアチアとしてユーゴから独立を宣言して、
クロアチア紛争が始まったんだ。
そして、ボスニア領内でも、彼らは自分達の国を作ることを望んでいた。

自分達の国を持って、自分達で国を動かし、
自分達が自分達を支配する。それが最も安全だったんだ。

>>1
今時間ないんだけど、夏なり冬なりにこれサウンドノベル化してもいい?
誰かから金とったり戦争を茶化したりしないから。

>>181
何に使ってくれても構わないよ。転載してくれても、それでお金を儲けてくれても構わない。
俺はたとえ少数であっても、伝えることが出来ればいいから。
何かを作る時には、やっぱり時間と労力がかかると思う。
作ったのであれば、それはもう貴方のものだから、それに対する報償が
生まれるのは当然だと思うよ。
こんな暗い話でお金儲けるなんて無理だと思うけどね・・・。

続き書くね。

つまり、俺達が住んでいた国、即ちボシュナは連邦から独立を宣言したんだ。
それと同時に、このボシュナは三つの国にわかれた。

一つはボシュニャチの人々のボシュナ。もう一つはフルヴァツキの人々のヘルツェグ=ボシュナ。
そしてスルツキを中心とするスルプスカに。俺達の居たカリノヴィクはこのスルプスカの領内だったんだ。

この時点で、もうこの国において、民族同士の衝突、戦争は避けられない状況になっていた。
俺達の街からも、首都サラエヴォに向けて脱出する人がちらほらと出てくるようになった。
あ、脱出したのはボシュニャチの人々ね。

こういう話はためになるな
日本から出たことがない+出る度胸もない俺にとっては日本という国がいかに平和なのかを実感させられる
今更だが>>1ありがとう

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